直江なおえ家家いえいえ系図けいず
    樋口(ひぐち)(かね)(とよ) 直江(なおえ)(かげつな) 長尾(ながお)(かげさだ)
生没年せいぼつねん不詳ふしょう     ?〜1602 1509?〜77 生没年せいぼつねん不詳ふしょう
                北信濃きたしなの武将ぶしょう泉弥いずみや七朗しちろう重蔵じゅうぞうむすめ一説いっせつには直江なおえかげるつないもうとともいう。         上杉うえすぎ景勝かげかつ実父じっぷである長尾ながお正景まさかげ下級かきゅう家臣かしんであったという。 代々だいだい越後えちご守護しゅごだい長尾ながおいえつかえ、かげるつな謙信けんしん重用ちょうようされた。男子だんしがいなかったため、むすめ信綱のぶつなとつがせ養子ようしにする。 上野うえのそうしゃ本拠ほんきょとするそうしゃ長尾ながおいえ当主とうしゅ上野うえのちくわれ、一族いちぞく越後えちごうつる。
                               
きた 秀兼(ひでかね) 大国(おおくに)実頼(さねより) 直江兼続(なおえかねつぐ)   ふねかた 直江(なおえ)信綱(のぶつな) 本多(ほんだ)正信(まさのぶ)
生没年せいぼつねん不詳ふしょう 生没年せいぼつねん不詳ふしょう 生没年せいぼつねん不詳ふしょう 生没年せいぼつねん不詳ふしょう 1562〜1622 1560〜1619   1557〜1637 ?〜1581 1538〜1616
ゆた三女さんじょ上杉うえすぎいえ部将ぶしょうしの泰信やすのぶよめす。 ゆた次女じじょ上杉うえすぎいえ重臣じゅうしんいろ光長みつながよめす。 ゆた長女ちょうじょ上杉うえすぎいえ家臣かしん須田すだたね(かげるとも)にす。 幼名ようめいはち大阪おおさかじんにも参加さんか樋口ひぐちいえぎ、1000いしりょうす。 ゆた次男じなん幼名ようめいなな小国しょうこくじゅうたよ養子ようしとなるが、景勝かげかつめいにより家名かめい大国たいこくあらためる。 ゆた長男ちょうなんとしてまれ、はやくから上杉うえすぎ景勝かげかつつかえた。直江家なおえけ家督かとくぎ、景勝けいしょう重臣じゅうしんとして上杉家うえすぎけ安泰あんたいつとめた。   直江なおえかげるつなむすめとしてまれ、はじ信綱のぶつなすが、信綱のぶつな死後しご家名かめい断絶だんぜつしんだ上杉うえすぎ景勝けいしょうにより樋口ひぐち兼続かねつぐ結婚けっこん 景勝かげかつ家臣かしんのひとりだったが、やかたらん恩賞おんしょうをめぐる家臣かしんあらそいにまれ、惨殺ざんさつされる。 徳川とくがわ家康いえやす側近そっきんとして使つかえ、のち将軍しょうぐん秀忠ひでただのもとで幕政ばくせいになう。
                           
               
景明(かげあき) まつ 本多(ほんだ)政重(まさしげ) とら 本多(ほんだ)正純(まさずみ)
?〜1605 ?〜1615 ?〜1605 1580〜1647 ?〜1627 1565〜1637
兼続かねつぐ次女じじょわかくして病没びょうぼつ 兼続かねつぐ嫡男ちゃくなん幼名ようめい竹松たけまついで平八へいはち名乗なのる。1609ねん(慶長けいちょう14ねん)、近江おうみぜんしょしろしゅ戸田とだうじてつむすめめとる。 兼続かねつぐ長女ちょうじょ。1604ねん(慶長けいちょう9ねん)に本多ほんだ政重まさしげ婿むこにとるが、翌年よくねん病没びょうぼつ 兼続かねつぐ長女ちょうじょ。1604ねん(慶長けいちょう9ねん)に本多ほんだ政重まさしげ婿むこにとるが、翌年よくねん病没びょうぼつ 大国たいこくじつたよむすめ。おまつ死後しご兼続かねつぐ幼女ようじょとして1609ねん(慶長けいちょう14ねん)にきち(本多ほんだ政重まさしげ)の継室けいしつとしてはいる。 家康いえやす側近そっきんとして権勢けんせいをふるい宇都宮うつのみや藩主はんしゅとしなるが、秀忠ひでただだいになり改易かいえきされ、蟄居ちっきょさき出羽でわ横手よこて死去しきょ
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